【情熱大陸】山口県長生炭鉱の場所はどこ?水没事故の原因も徹底調査!

情熱大陸
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2026年6月21日に放送された情熱大陸で、水中探検家・伊左治佳孝さんの活動が特集されました。その中で大きく取り上げられたのが、山口県宇部市にある「長生炭鉱」での遺骨収容プロジェクトです。

戦時中の水没事故で183人もの命が奪われ、今も海底に遺骨が眠り続けているこの炭鉱。SNSでは「場所はどこ?」「事故の原因は何だったの?」という声が多く見られます。

この記事では、長生炭鉱の場所や歴史、水没事故の原因と被害の実態、そして情熱大陸で描かれた伊左治さんの活動について、詳しく調べてまとめました。気になる方は、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!

情熱大陸で取り上げられた長生炭鉱とは?

長生炭鉱(ちょうせいたんこう)は、山口県宇部市にあった海底炭鉱です。

1942年2月3日に発生した水没事故で、朝鮮半島出身者136人を含む183人が亡くなったという、痛ましい歴史を持つ場所でもあります。

事故から80年以上が経過した今も、犠牲者の遺骨は海底に眠ったまま。2026年6月21日放送の情熱大陸では、この遺骨収容に挑む水中探検家・伊左治佳孝さんの活動が描かれました。

当時山口県には多くの炭鉱がありましたが、長生炭鉱は特に海底坑道の危険な炭鉱として知られていました。また、全国的にも朝鮮人労働者が多かった山口県の中でも、ずば抜けて朝鮮半島出身者の数が多く、「朝鮮炭鉱」と呼ばれていたといいます。

こうした歴史的事実が長らく語られず、地域の記憶から消されていったという点は、情報の透明性や記録の大切さを改めて考えさせられますね。

山口県長生炭鉱の場所はどこにある?

具体的な住所やアクセス

長生炭鉱跡地は、山口県宇部市の東部、瀬戸内海に面した床波(とこなみ)海岸にあります。

床波漁港付近には「長生炭鉱追悼ひろば」が設置されており、海の上には2本のピーヤ(排気・排水筒)が、まるで墓標のように海面から突き出ています。

このピーヤこそが、長生炭鉱がここに存在したことを示す唯一の遺構です。遺族にとっては、今も海底に眠る家族を偲ぶ墓標ともいえる存在なんですよね。

宇部市中心部から車で約20分程度の距離にあり、床波海岸は静かな港町の雰囲気が漂っています。

現在の様子は?訪れることはできる?

現在、長生炭鉱跡地は一般の方でも訪れることができます。

1990年代には坑口や巻櫓(まきやぐら)の台座など炭鉱の遺構がありましたが、遺構はいつしか誰かに撤去され、坑口もどこか分からなくなってしまっている状態です。

床波海岸には「長生炭鉱追悼ひろば」があり、2013年2月には犠牲者全員の名前を刻んだ追悼碑が建立されました。海を見つめながら手を合わせることができる場所として、遺族や関係者が毎年2月3日の事故の日に集まり、追悼集会が開かれています。

全国的にも海の中に立っているピーヤは他にはないといわれており、歴史的価値も高い遺構として保存活動が続けられています。

こうした歴史の痕跡を大切に残していこうとする地域の方々の姿勢には、本当に頭が下がる思いです。

長生炭鉱の歴史を簡単に振り返る

いつ頃から採掘が始まった?

長生炭鉱は、1932年から本格的に操業を開始しました。

宇部炭鉱は明治43年(1910年)に海底炭田の採掘に着手しており、大正4年(1915年)には沖合に人工島「百間角」を構築するなど、早い段階から海底炭鉱の開発を進めていました。

長生炭鉱も宇部炭田に属する炭鉱のひとつで、陸地から掘り始め、海底のさらに下に掘り進んだ海底坑道を持つ炭鉱でした。

炭鉱としての規模や特徴

長生炭鉱の内部構造は、潜水調査によって以下のような特徴が明らかになっています。

・坑道内の水深は概ね42〜44メートル
・事故時の崩落地点までは沖のピーヤ(坑口)から約800メートル
・海底炭鉱特有の危険性があり、安全基準を守ることが難しい環境だった

海底炭鉱は、浅瀬で採掘する場合、本来海底から深さ47m以上の部分で採掘する必要があるという安全基準がありました。しかし長生炭鉱では、最深部が37mという違法状態で運営されていたことが分かっています。

光も届かず、圧力も高いその場所で、毎日作業を続けていた労働者の方々の苦労は計り知れません。

水没事故はいつ、どのように起きたのか?

事故が発生した日時と状況

水没事故は、1942年2月3日午前6時頃に発生しました。

海岸の坑口から1000メートル以上沖の坑道で異常出水が始まり、午前8時頃には坑道が完全に水没するという大惨事となりました。炭鉱用語では、この水没事故のことを「水非常(みずひじょう)」といいます。

事故が起きたのは太平洋戦争の開戦直後という時期で、国をあげて石炭の増産が急務とされていた時代でした。そのため、安全よりも生産が優先されていた状況が背景にあったと考えられます。

被害の規模はどれくらいだった?

この事故による死亡者は、合計で183人です。

その内訳は以下の通りです。

・朝鮮半島出身者:136人
・日本列島出身者:47人

この人数は、長生炭鉱付近にある西光寺の位牌の名前と、福岡県の殉職産業名簿に記載された名前を照合することで特定されました。

宇部炭鉱で発生した1915年の東見初炭鉱の死者235人に次ぐ甚大な被害でしたが、太平洋戦争開戦間もなくであったため情報統制がなされ、広く取り上げられることはありませんでした。

183人もの命が一度に失われた事故。数字として見ると、その重みをつい忘れそうになりますが、一人ひとりに家族がいて、それぞれの人生があったことを忘れてはいけませんよね。

水没事故の原因を徹底調査

技術的な原因は何だった?

水没事故の主な原因は、安全基準を無視した過剰な採掘です。

具体的には、以下のような技術的問題がありました。

・海底炭鉱では海底から深さ47m以上の部分で採掘する必要があったが、長生炭鉱では最深部が37mという違法状態で運営されていた
・海底から近すぎる距離での採掘により、天盤(坑道の天井部分)が薄くなり、崩壊のリスクが高まっていた
・坑口から約1km沖の坑道で天盤が崩壊し、海水が一気に坑道に流れ込んだ

宇部市史(1993年発行)によれば、長生炭鉱は「強制連行された朝鮮人らがたくさん働いていた」との記述があり、危険な環境下での労働が常態化していたことがうかがえます。

当時の安全対策に問題はあった?

当時の安全対策には、明らかな問題がありました。

・太平洋戦争に伴う石炭増産の急務により、無理な採掘が続けられた
・海底から近すぎる距離での採掘という違法操業が常態化していた
・労働者の安全よりも生産が優先される構造があった

太平洋戦争という時代背景の中で、「戦争遂行」が掲げられた国策の渦中だったことも、安全対策が軽視された大きな要因だったと考えられます。

当時の情報統制や安全軽視の姿勢は、現代の私たちが決して繰り返してはならない教訓ですね。

事故後の対応や救助活動

事故発生当時の対応としては、以下の通りです。

  1. 憲兵隊による坑口の即時封鎖:事故当日、生存者救出や確認を行うよりも先に、憲兵隊によって坑口が封鎖されました。坑口では女子供が泣き叫んでいたといいます。
  2. 情報統制:死者235人を出した1915年の東見初炭鉱事故に次ぐ甚大な被害でしたが、太平洋戦争の開戦直後という状況下で情報統制が行われ、広く取り上げられることはありませんでした。
  3. 坑口の封鎖理由:二次災害を防ぐという理由で坑口が封鎖されましたが、結果として183人の遺骨が今も海の底に残されたままとなっています。

事故後も別の坑口を開けて採炭は続き、戦後に経営会社は廃業しました。この事実は全く語られることなく、宇部の歴史から抹殺されていったのです。

誠実さが長期的な信頼を生むということを、私は仕事で実感したことがあります。当時の対応は、まさにその逆でした。情報を隠し、遺骨も放置されたまま。この歴史を知ると、本当に胸が痛みます。

事故が残した教訓と影響

長生炭鉱の水没事故が残した教訓と影響は、今も続いています。

歴史の記録と継承の重要性:事故後、この事実は全く語られることなく、宇部の歴史から抹殺されていきました。1991年に市民団体「長生炭鉱の”水非常”を歴史に刻む会」が結成されるまで、約50年間もの間、この悲劇は忘れ去られていたのです。

遺骨収容という未解決の課題:2013年2月には念願の追悼碑が建立されましたが、遺骨収容はとても大きな課題として残り続けています。2024年からは水中探検家・伊左治佳孝さんらによる本格的な潜水調査が始まり、2025年8月には初めて遺骨が収容されました。

日韓の歴史認識:犠牲者の7割以上が朝鮮半島出身者だったという事実は、日韓の歴史認識を考える上でも重要な意味を持ちます。市民団体は1992年以来、毎年事故の日に合わせて韓国から犠牲者の遺族を招いて追悼集会を開催しています。

安全対策の教訓:違法操業と安全軽視がもたらした悲劇は、現代の労働安全や企業のコンプライアンスを考える上でも大きな教訓となっています。

市民団体の方々が30年以上にわたって地道に活動を続けてこられたことに、本当に敬意を表したいですね。

情熱大陸ではどんな視点で取り上げられた?

2026年6月21日放送の情熱大陸では、水中探検家・伊左治佳孝さんの活動を通じて、長生炭鉱の遺骨収容プロジェクトが描かれました。

番組では以下のような内容が取り上げられました。

伊左治さんの探検家としての生き方:「探検をした先で見つけたものを、誰かと共有したい」という思いで活動する伊左治さん。自宅は持たず、インストラクターとして収入を確保し、探検や講習で赴く先のホテルを転々としているという異色の経歴が紹介されました。

長生炭鉱での決死の潜水調査:2024年から着手した長生炭鉱での潜水調査の様子が詳しく描かれました。視界がほとんどない水中で、先の尖った鉄片によって防寒用の潜水スーツが裂かれたこともあるという、危険と隣り合わせの活動です。

遺骨収容の実現:2025年8月、韓国人ダイバーによって初の遺骨収容が実現。しかし、2026年2月の大規模調査では、ダイバーの1人が調査中に意識を失い、命を落としてしまうという悲劇も起こりました。

事故後も続く探検:「彼のためにも、この経験を活かさないといけない」と語る伊左治さんは、事故後も日本最大のカルスト台地・秋吉台の巨大地下水系への探検を開始。なぜ潜り続けるのか、その生き方が丁寧に描かれました。

番組を通じて、「自分ならではの役割は何か」を探し求め続ける伊左治さんの姿勢が印象的で、共感できる内容でしたね。

世間の反応やSNSの声

情熱大陸の放送後、SNSではさまざまな反応が見られました。

・「長生炭鉱の歴史を初めて知った。こんな悲劇があったなんて…」
・「伊左治さんの活動に感動した。命をかけて遺骨を収容しようとする姿勢がすごい」
・「183人もの遺骨が今も海底に残されているなんて信じられない」
・「政府はなぜ放っておくのか。国として責任を持って対応すべきでは」
・「戦時中の朝鮮人労働者の歴史をもっと知るべきだと思った」

また、市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」のX(旧Twitter)アカウント(@Chouseikizamu)では、日々の活動報告や遺骨収容に向けた取り組みが発信されており、多くの人々が関心を寄せています。

2026年1月30日には、厚生労働省が初めて現場視察を行い、「遺骨収容作業の安全対策に向けた調査に10億円超を要する」との見解が示されました。これを受けて、国としての対応を求める声がさらに高まっています。

80年以上も遺族を待たせ続けている現状は、本当に心苦しいものがあります。一日でも早く、遺骨が遺族のもとに帰ることを願わずにはいられません。

まとめ:長生炭鉱の歴史を忘れないために

長生炭鉱について、この記事で分かったことをまとめます。

【要点まとめ】
長生炭鉱は山口県宇部市の床波海岸にあった海底炭鉱
1942年2月3日に水没事故が発生し、朝鮮半島出身者136人を含む183人が犠牲となった
事故の原因は安全基準を無視した過剰採掘と、戦時下の石炭増産による無理な操業
事故後は情報統制により歴史から抹殺され、遺骨は今も海底に残されたまま
2024年から水中探検家・伊左治佳孝さんらによる遺骨収容プロジェクトが本格化
2026年6月21日放送の情熱大陸で、この活動が広く知られることとなった
現在も市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が追悼活動を続けている

長生炭鉱で起きた悲劇は、決して「たまたま起きた不幸な事故」では片付けられません。戦争遂行という国策の中で、安全が軽視され、183人もの命が失われたのです。

そして、事故から80年以上が経った今も、遺骨は冷たい海に残されたまま。遺族の方々の悲しみや苦しみは、想像を絶するものがあります。

長生炭鉱の歴史を後世に伝え続けること、遺骨を一日でも早く遺族のもとに返すこと。それが、私たちに課された責任なのだと思います。

長生炭鉱の新しい情報が入ったら、また追記していきますね。最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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